まず、沖縄は青くはてしなく広がる海と、白い砂浜が打ち上げる泡波にささやかにもまれていく上を優雅に舞う海鳥があって、初めてバリューを得るものである。なぜなら、それらは近代社会の激しい競争に揉まれ揉まれてへとへとに疲れてしまった、真面目にがんばる日本人に安らぎを与えるからである。国内でありながらも、まるで遠い南国にエスケープしたような錯覚を覚えることができる。旅行産業の発展により、もう知り尽くされたかのように思える沖縄の自然の美しさは、活字を通して再現することによって、至高のロマンチック環境を提供することは間違いない。どんなへぼいロマンス・ストーリーでも、不思議とエキゾチックな雰囲気をかもし出す。どんな作家にとってもこれほど便利な材題はまれである。
が、ストーリーの設定を沖縄とする場合、多くの海辺の一等地を占領する米軍基地施設や、コンクリートの塊のような膨大なリゾート地などに触れることは芳しくない。沖縄は、あくまでも平安をイメージさせるものであるべきであり、だれもが[暴力]や、[戦争]を連想するようなモチーフは、パラダイスには似合わないからである。
テクノロジーや、近代化を思い起こさせるものも沖縄独自の特徴として表現することは、極力避けるべきである。沖縄人は、まず大和のような洗練された文明と違って、野蛮的であり、あくまでも大和の人間と照らし合わせて見てさらに大和の高度文明を再確認できる、もってこいの[鏡]の対象になり得るからだ。沖縄人社会にてもしも近代社会でしか見られないような文明や経済発展の証が認められるとするならば、そこではっきり、それは大和の寛大なチャリティーや、技術提供、経済的支援などによって、初めて実現したものだと読者に明確に伝わる様に捉えなければならない。ここで、どう間違えても、沖縄が復帰を果たした1972年以降、大和経済や米軍基地に依存せざるを得ない基盤がさらに強化されていった、などとは漏らしてはならない。
大和出身の主人公をとりまく地元の沖縄人は、確かに遅れてはいるが、大人のドロドロした側面をまだ知らぬ幼子のように屈託の無い顔つきで、(そしてそれは一昔前までは日本各地でよく目撃されていた農民のように、照り付ける太陽光線の下で干乾び、泥など付着していればさらに適切なイメージを作り上げることができることは、言うまでも無い)洗練された大和の主人公が発する輝かしいオーラにふれて素直に感嘆の声をあげる風景が望ましいであろう。打算を知らず、ナイーブで、大和からの慈善事業や、救済・支援活動などに出くわすと、思わず感謝の言葉をもらす。それは、きちんとした標準語ではなく、訛りの強い言葉であるが、親切な大和人は、教養のない田舎モンの人間だから、それ以上は期待すること自体間違っているのだ、と心得ており、あえてそれを指摘することはしない。立派なチャリティー精神が確立されている証拠である。
そして、感謝に溢れて笑顔を絶やさない沖縄人キャラクターは、日本で一般的に言われる「沖縄人はやさしい、絶対怒らない」という性質を的確に反映する。もちろん、本土の人間も優しいのだが、やはり自分に自信があり、心に余裕があるからこそ、他者の優しさを寛容に受け入れて認めてあげることができるのだ。だから、「沖縄人はやさしい」という考えも、実は、根本的に日本人の器の深さを如実に描いている。
時たま、せっかく差し伸べている親切の手を乱暴に退ける低レベルの地元人間が浮上することもありうる。そういった場合、もっぱら大和人の主人公を被害者として位置づけるべきことは、言うまでも無い。わざわざ遠い沖縄まで来て、せっかくのバカンスをエンジョイできたのにもかかわらず、それをせずに、長年不平一つ言わずに勤めてきた東京の大企業からやっとこさ勝ち得た短い休暇のなか、貴重な時間を割いてまで、人助けをしようというシナリオを組み込むことは、究極の人間性を表す自己犠牲として読者の心を強く感動に導くであろう。だからこそ、その価値を見出すことすらできない心の狭い地元人間は、心の開けた主人公の哀れに満ちた眼差しを向けられる対象として捉えるべきである。
歴史的フィクションの場合、沖縄の侵略や戦争の体験を念頭に入れておく必要がある。しかし、戦争という惨い働きは、だれもが多大な犠牲を払わされたのが事実であり、広島や長崎の様に、世界人類が皆手をつないで、いがみ合いをしないように心がけることに専念する必要性を訴えるものである。もちろん、主人公は、平和への試みを自分の生き方に引き寄せて真剣に受け止めているからこそ、何百年も前に起こった琉球処分や、太平洋戦争時代に起こった沖縄戦争、そして現在でも頻繁に起こる米軍兵士らによる暴行事件など、大和の民間が体験した徴兵から、近年発覚した北朝鮮による拉致事件などを通して強く共感する器を持ち合わせている。寛大な心の持ち主である。
主人公が若者であると、沖縄の夜の世界に繰り出す場面も自然に登場することであろう。沖縄は、大和とは比較できないぐらい米軍基地の集中率が高いが、そのおかげで、自由の国アメリカの雰囲気が充満している。特に、繁華街など、精一杯着飾って遊楽を求めに山原(やんばる)など、文明社会秩序が通用しない様な野性環境から繰り出してきた若者たちで賑わう場所では、「かっこいい」の象徴はすらっとした体格に西洋の最新ファッションを自然にまとった白人たちである。主人公は、大和人であるから、色白で、ゴギャンのオリエンタリズムをワンランク・アップしたようなエキゾチックな面影を演出する。地元人間の群集の中、ひときわ目を引くのも、とりわけこの「かっこいい」度がかなり高度であるからだ。
しかしこれは決して努力をなくして手にしたかざりだけの勲章ではなく、特に大和の女性であれば、日常から洗練されたマナーや、日焼け止めなどはもっぱら、美容にくめなく注意を払ってきた成果の現れである。確かに、別に仕事を2つも3つも掛け持ちしなければいけないほど貧乏ではないので、職場から退勤したら、あとは自分を磨くために自由に使える時間や余裕がある。が、自由な時間を有利に使えば、だれでもきれいになれるものである。やればできるのだ。東京を見回してみよ。戦後まではもんぺをはいて下駄をつっかけていた社会が、今や世界に誇れる身なりで颯爽とコンクリートのジャングルをナビゲートしている。それをしない、いや、できない地元の人間は怠慢であり、大和人の様にがんばれていないだけである。アフリカ大陸でも、アメリカ国内のスラム地区などでももちろん、同じことが言えよう。
西洋で決められた「かっこいい」の定義は、鵜呑みにするべきものではなく、自らもそれを定義する自由・権利があるのだと主張する者もいるが、そんな言論を作品の中で許せば、もはや大和からの美のコンセプトを沖縄に輸出することを否定することになりかねない。日本が西洋から発信され続ける美の定義を徹底的に、包容的に受け入れてきたからこそ、国際社会の一員として胸をはることができる経済大国にもなり得たのである。世界最大の影響力を誇るアメリカでさえ、日本を「貴重なパートナー」として認めて公言しているのである。早く、沖縄もこのような栄光を納めることができるように、大先輩である大和に心を開いてほしいものである。
大和の人間は、沖縄に住むことによって、周囲の人間を教育しなければいけないような立場に立たされることがしばしばある。主人公は、やさしく、忍耐強く、なかなか追いつかない沖縄の経済力や教育所得率をアップさせるがごとく、技術や知識を私欲にとらわれることなく普及させようとする。大和なしでは、所詮何の産業も確立できないぐらいダメなのである。が、主人公の美しい犠牲者の姿をかもし出すためには、せめて、日本政府が思いやり予算を毎年更新して、米軍基地が繁栄できるような環境作りと長期安定に励むことによって、おこぼれが沖縄の地元社会に循環されることをささやかに祈り続けるシーンは最低限でも盛り込むことをお勧めする。ここで、何もせずに地元地主として一定の収入が保証されているがために怠け癖がついてしまったキャラクターなどは、「基地のせいでそうなった」などと解釈される可能性があるので、登場させないように心がけるべきであろう。
そして、沖縄のためを思う主人公は、観光産業の活性化にも励む場面にも登場させることを検討するべきであろう。何しろ、大和から資本が投入されてから初めて雇用が生まれる構造であるから、不動産から水商売からリゾート開発にわたって、有能な大和の事業家が活躍する社会的、経済的空間がさらに拡大されるように働きかける。そうしなければ、長期にわたってのビジネスのノウハウや技術は確実にトランスファー(移転)できないのであるから。今や、資本主義経済のグローバル化の時代である。時代の波に乗り遅れてきた沖縄が、奇跡的な急成長を成し遂げてきた日本の成功に見習って、早く本土に追いつくように、手助けをする。自分が国家発展の恩恵を受け継いで生まれてきたことを認識し、よって、それを、自分のように恵まれなかった社会にも普及させようとする、そのけなげな奉仕精神は、実に見事である。たまに例外として沖縄の人間が誰の助けも借りずに、しかも、沖縄のアイデンティティーを妥協せずに、一定の成功を収めた、などという話は現実では確かにある話だが、決して言及してはならない。沖縄人は、大和に文明開化されて、初めて人間としての価値を、さらには文明人としての付加価値を、手に入れることができるのだから。
最後に、沖縄独自の文化や伝統などは、国際化社会が謳われる二十一世紀の風潮を踏まえて、日本国家の誇る民族・文化的多様性の証として最大限に導入するべきであろう。芸能界でさえ、近年では沖縄ブームを巻き起こし、多くの沖縄出身のスターを生み出した。そもそも「沖縄」が人類に貢献する材料を持ち合わせているという感覚を大和中に植えつけることに成功したのも、大和側が熱心に沖縄の音楽や食文化、言語から風習までもが商品化される過程をサポートし、カネをつぎ込むなどの投資を惜しまなかったからである。大和には沖縄なしでも充分エンターテイメントできるインスピレーションがごろとあるのだから。国際貿易も人間の交流も世界規模に広がり、世界中のカルチャーと触れることができる。カネ社会だから、商品が“文化”そのものであったとしても、カネを払えば買える様にすることによって、一人でも多くの人が、[沖縄]を所有することができる。ただ、日本全国の消費者達は何を求めているのか、は、カネを持つ消費者側に立つ主人公の活躍の秘訣を隠し持っている。沖縄側に、日本の消費者のトレンドをきちんと伝えないと、分からないのがあたりまえであるから、そこで主人公の視点が貴重になってくる。どう商品化すればよいのか、どうすれば売れるのか、付加価値を発生させるためにはどうすればよいのか、そして、コストを削減するために、オートメーションを図り、どの人件費は合法的にカットできるのか、などといった戦略思考は、経営者にとって不可欠である。が、沖縄の文化や伝統を守って継承しているコミュニティなどでは、未だにカネより大切なことがある、カネは多く持たずとも、共同生活体制を従来のように維持していく、などと夢のようなことを唱えている者がいる。現実逃避できている間は良いが、今に貧乏くじを引くであろう事は、目に見えている(いや、すでに引いているからこそ、日本国内で最貧県なのかもしれないが)。そんな悲しい最終結果が見え透いているのに、見て見ぬフリは到底できないのが慈悲深い主人公であるべきだろう。沖縄が本土に早く追いつくために、自分は惜しまず睡眠まで割いてがんばり、挙句の果てには体調を壊してしまう、などといったシナリオは、読者の涙や同情を誘うことは間違いない。そして、思わず読者も[沖縄、がんばれ!やればできるさー]と、連帯の意を込めて、沖縄弁でエールを送ってくれることであろう。
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